こころの栄養(連載コラム)

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第五回

自分で自分を苦しめる前に ヤマザキマリ

ヤマザキマリ
1967年、東京都生まれ、イタリア在住。漫画家。17歳でイタリアに渡り、油絵を学ぶ。漫画『テルマエ・ロマエ』(全6巻、KADOKAWA)がベストセラーに。『国境のない生き方 私をつくった本と旅』(小学館新書)、『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』(集英社新書)など著書多数。

日本人は他国の人に比べて「ランキング好き」だと言われている。情報や世論を信用している国民の特徴が反映されているが、学校や書籍、レストランや食べ物など、日常生活で私たちが関与していくありとあらゆるものがそのジャンルの中で比較され、評価を下され、そして人々はその結果を参考に選択をする、という公式が出来上がっている。

私の暮らしているイタリアは、情報をそのまま信じてしまうような素直さをもともと備えていない人種の国なので、ランキングというものを滅多に目にも耳にもしない。自分の漫画がヒットをしたとき、毎日アマゾンのランキングやレビューを追っている私を「そういう病的なことはやめたほうがいい」と夫が注意してきたことが度々あった。私自身も子供の頃から完結した変わり者として、他者と自分は何一つ比較する基準がないと確信しながら育ってきたが、それでも自分の生み出したものが「ヒット」という現象を起こした途端に、突発的に世の中の人々の評価というものの意味や重要性が気に掛かるようになってしまったのだ。

プレッシャーが「比較」を招く

『テルマエ・ロマエ』という作品は、もともと沢山の人に読んで欲しいと思って描いたものではなかった。身内の作家同士で笑い合える、同人誌レベルのお遊び漫画として、商売と結びつくかどうかという懸念は微塵(みじん)も念頭に置かずに、本当に自由奔放に生み出したものだった。だから、尚更だったのかもしれない。自分的には評価やランキングなんてされるはずもなかった作品が取り沙汰されるという、予想外の顛末(てんまつ)とその強烈な吸引力のある現象に、瞬く間に意識が巻き込まれてしまったのだ。

ヒットというプレッシャーを上手く操作することもできないうちに、私はその評価を裏切らないように、どんどん面白いエピソードを創らなければいけないという煽(あお)りに苛(さいな)まれ、自分の作品以外にも注目されている漫画作品をどんどん購入して、売れる漫画作品の特性を分析するようにまでなっていた。でも、もともと漫画が大好きで漫画家になりたいという夢や希望をつのらせてきたわけでもなく、読むとしても昭和時代のマイナーな作品ばかりだったし、経済的な意味でも止(や)むを得ない事情により漫画家になった私は、決して寛容な漫画の読者ではないので、世の中で評価されているそれら沢山の作品に惹(ひ)き込まれることはなかった。漫画好きでリアルタイムの流行漫画を楽しそうに読んでいる息子から借りる作品も、1巻を頑張って読み終えられればいいほうで、それ以上は意欲が継続しないのである。

日本から早く出て行ってしまったせいもあるが、もともと本ばかり読んで育ってきた私は、活字から脳内でイメージを膨らませるのを楽しいと思う人間だった。なので、ストーリーに伴うイメージが最初から決定付けられてしまっている「漫画」は、イメージと活字の調和が突出した結果を露顕させたものにでもなっていない限り、途中でつまらなくなってしまうのだ。

ここがもう、大多数の漫画読者と自分の志向を隔ててしまうところだと思う。こんな資質の私が創った作品を、他の人気漫画と比べたって有意義なことは何もないのに、私はそれをやって、自分の漫画表現力や画力の欠落を強く感じるようになり、ノイローゼ寸前になるくらいまで落ち込んだ。今でこそあの苦々しい状況から脱出を果たし、様々な漫画を余計な分析意識を持たずに読めるようにもなったが、動機や対象が何であれ、人間にとって「他者と自分の比較」ほど自分を苦しませるものはない、ということを痛感させられた。

比べることで本質を見失う

先日「嫉妬」がテーマになったとある精神科医の本を読む機会があったのだが、古今東西、人間の歴史というものは、常に他者と自分を比較することで発生する妬みややっかみ、悔しさによって構築されてきたのだということがよく判(わか)って興味深かった。その書評をとある新聞に寄稿したら、コメンテーターで出演している報道番組の司会者である宮根誠司さんから「あの記事を読んだけど、つまりテロとかも根拠は全てそこに繋(つな)がるよね」と声をかけられ、ああまさに、と思ったのだった。あんたたちはあんたたち、我々は我々、という潔い世の中の多元的なあり方を寛容に捉える認識力が備わっていたら、「俺たちの考えが正しいのだから、俺たちの言うことを聞け! 俺たちの同族になれ!」という強制の欲求なんて湧いてはこないはずなのだ。

欧州で問題になっているようなテロ集団や、ISという組織に勧誘を促す連中の言葉の中にも、やはり自分たちだけがなぜ社会で冷遇されるのか、という他者との比較による被害者意識と劣等意識が巧みな刺激要素となって混ぜ込まれている。まだ学ぶべきことが沢山あるはずの若い脳みそはその刺激に煽動(せんどう)されて、無知な情動だけに突き動かされた行動に走ってしまうのだろう。

子供の教育の現場でも、そしてお母さん同士の付き合いの中でも、会社の中でも、この「他者との比較」という暗黒要素は全く無意識のうちに人々の中に浸透し、時には正しいはずの物事の判断力すら狂わせてしまう。人間という生き物は見た目の様子だけでなく中味も多種多様だし、体の発達にしても脳みその発達のプロセスも個人差があって当然なのに、いわゆる人生の勝ち組を目標に育てられる子供たちを見ていると、そういった個人差を尊重されもせず、不憫(ふびん)だと思うことが頻繁にある。東京では児童用の心理カウンセラーが順番待ちのところも少なくないと聞いて心底からびっくりしたが、やはりどこかで子供たちそれぞれの水準や特質が無視された、不自然な圧力が掛かってしまっている事実がそこからも窺(うかが)える。

カバはゾウになれないから

他人は他人、人は人。皆同じじゃなくてあたりまえ。社会の中で沢山の人と接していても、基本的にこのシンプルな概念さえ脳内に定着していれば、精神的にもどんなに楽になるだろうと思うのだが、知的生物であるはずの人間も、進化しているようでまだそういうアビリティを操作できるまでには至ってないようだ。

アフリカのサバンナの水飲み場に集まる様々な種類の動物たちや、海の中に生息する様々な種類の生物、そして土壌で生きる数えきれない種類の昆虫など、見た目も生態系も違うけれど、同じ場所で毅然(きぜん)と共存している生き物を見ていると、人間という生き物の有様が残念で仕方なくなることがある。ゾウはカバに自分たちと同じ行動を取ることを強制しないし、イルカがタコを愚劣だと感じたりしているとは思えない。根拠のない基準を軸に他者や周りと比較をし、自分や自分の考え方に優劣をつけたくなる衝動を抑えること、それがまず我々の発達してしまった知性への、欠かしてはならないメンテナンスの一つではないかと思う。

(出典:「PHPスペシャル」2016年4月号)


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